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綾瀬はるか出演、八重の桜の会津藩のルーツ、発足の経緯[画像] [ドラマ]

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幕末の戊辰戦争では薩摩藩、長州藩の新政府軍から、幕府の代わりのように傷めつけられた会津藩ですが、会津と薩摩は現在でも仲が悪いらしく、会津では、
「薩摩ものと結婚するな。」
というエピソードがしばしば耳に入ってきます。

会津藩が徳川幕府に忠誠を誓っていたことも有名ですが、このルーツについて、調べてみました。

会津藩のルーツは誕生がすこし複雑です。

会津磐梯山のふもとに、土津神社(はにつじんじゃ)という神社がたてられています。
土津神社.jpg
土津神社は、磐梯山(ばんだいさん)の昔の呼び名、「磐椅山(いわはしやま)」の名前を戴いた磐椅神社の末社になります。

徳川家康の跡継ぎの2代目将軍、徳川秀忠。この方の奥さんは、当時の殿様に当たり前だった「一夫多妻」を認めず、旦那は浮気は一切認めませんでした。

この奥さんは去年の大河ドラマの主役の「お江」織田信長、お江の姉は豊臣秀吉の側室となったお茶々(淀君)です。
お江.jpg
秀忠は、女中に手を出して男の子がうまれました。
この子を素性を隠して武田信玄の娘たちに預け、7歳のときに信州高遠城主の保科正光の養子となります。

この時に「保科正之」と名乗っています。

お江が他界したあと、異母兄の3代将軍徳川家光に会い、意気投合し、将軍の補佐役を務め、その後、初代会津藩主になったことが、松平会津藩の誕生です。

保科正之が没後に前述した土津神社に祀られました。

藩主筋の保科家は、その後松平家と名前を変え、一貫して将軍家の補佐役を担い、幕末も京都見回り組を組織したり、新撰組のスポンサー、白虎隊の結成と、衰退する幕府を支えていました。

そこら辺の部分は、今やっている『八重の桜』でも取り上げられているエピソードです。


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